Life


旅の記録の最終回がいつまで経ってもエントリーされず、記録中のわたしは風呂に入れないまま、ついに1ヶ月が過ぎましたが。

今日は深夜の会社でまったく関係ないエントリーをだらだらとします。(新聞読むとか掃除するとか机周り整理するとかって、日中はなかなかできないんでやるなら朝早く来るしかないと思っていたけど、今、仕事終わってから一人深夜にやってみたら、なかなか気持ちがよかった。勢いでブログも書いてみる。)

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さて、いつ死んでも心残りのない人生を送ろうというのが、わたしの昔からの心がけです。

いつ死んでも心残りのない「人生」というのは少しおかしい。生きてから死ぬまでを一つの「人生」として捉えると、そこになんか意味とか達成感みたいなものがないと「心残りのない」ものにはなりえないような気がするから。気がするだけで、これは言葉のマジック。

それよりは、いつ死んでも心残りのない「生活」を、というのがしっくりくる。同じようなことなんだけど。

「人生」は大げさ。人生を意識して生きてると、プレッシャーに負けちゃうな。
朝起きて、夜までの長さを思うと暗澹たる気分になるのと同じだな。

それよりも、朝イチでやらなきゃいけないことを考える。今日の居心地良さを大事にする。

「生活」を大事にするというと、今度はきちんとおいしい自炊をするだとか、丁寧に紅茶を入れるだとか、そんなイメージも湧くけど、それもちがう。

たとえばここのところ仕事が忙しくて、ティーバッグのハーブティーを入れる余裕もないほどの精神状態。お茶を入れる時間くらいあるのだけど、焦っているのでそういう気分にならないのです。でも、余裕がないのも含め、そういう生活が今はたのしい。

何が言いたかったかというと、「天気は『今日』の額縁」ということだったのだけど、まったくそこへ行き着けないまま、筆を置きます。

‥‥わたしもう書く人じゃない気がする‥‥。でも書くの好きなの。

こういうのも、ライフワークバランスっつーの?


生活スタイルとして、家で仕事できれば、職種はなんでもいいのだ。

やりたいことが「ない」と答えるのは、道を外しているというか、ニートと同じようにダメな人間になるような気がするので、なんかあるみたいに言うし、実際あるような気もする。でも、そこに向かって歩む前に「できないかもしれないし、やってできないよりは『やりたいわけじゃない』ことにしよう」としてしまうということは、つまり実際客観的に見て「やってる」「やってない」で言ったら「やってない」ってことは、どのみち大した「やりたいこと」は持っていないのだろう。

そういうややこしいことはさておいて、もう何年も、いちばん真ん中にある大事なものは「暮らし」です。

暮らしに集中したい。朝起きて、明るい時間に家事して仕事して、夜はまったり気ままに過ごして、就寝する。

今はだいぶそれに近いので、なんとか満足している。ことにしている。けど改善したい点は山盛りある。

こないだ割り切ったのは、「夢を叶える!」じゃなくて、「生計を立てる(暮らす)ために!」というベクトルでがんばろうということ。家でできる仕事で、生計を立てることができて、わたしにできそうなことって何かなと思うと、ぼんやりしている「やりたいこと」とぴったり一致する。好都合じゃないか。

自分なんてこんなもの


なんかもう、なにもかも捨てたい。なげやりたい。

なにもかもバカバカしくなっちゃった。仕事も恋人も友達も髪や服をちゃんとすることもうっちゃって、誰かに愚痴やら身の上やら聞いてもらいながら寂しくなく眠りたい。

もう、なにもかも、バカバカしく、面倒くさく、鼻白む。

でも、モノの減った秩序ある部屋にいるのはうれしい。
この部屋で、秩序ある暮らしらしい暮らしを営みたい。
ただそれだけが、したい。

寂しい。自分なんて、こんなもの、捨ててしまいたい。

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やりたい本の企画書を書きたい。
いやその前に、書きたいものを書きたい。
いやその前に、書きたいものを掘り起こしたい。
絵を描いたり、ピアノを弾いたり歌ったり、そういう気の向くことをやりたい。

ちょっと忙しすぎる。

一人の時間


イライラすることも、鬱に入ることも、健全な暮らしに必要なことです。
でも好きな人とは楽しく過ごしたいから、イライラや鬱は一人でいるときに楽しみたいです。

4月、休みのない日々が続きました。いつから休んでないだろう。
GWは、客人が来て丸一日びっちり遊んで夜もワンルームに一緒に寝る、という生活が絶え間なく続きました。

会社はかなり休みをもらった。
意志をもって向き合えば、Webの改造くらいできただろうし、小説の1本もできたと思う。

こういうまとまった時間を、人といることに割きすぎるのは良くない。

貧乏なので、ついつい焦る。
タイムマネージメントがうまくできない。
自分で線を引いて、無理のないペースで人と遊ぶということが、難しい。

この部屋に、人を連泊させるのは最長3泊までにしよう。1週末が限界。
理由があって延泊するなら1泊まで。
ペース配分できないから、自分の精神的な安定がキープできなくなる。
一人でも忙しいのに。

梅雨や夏は、部屋で一人の時間を充実させよう。
貧乏でいい。
種をまかなきゃ花は咲かない、実はみのらない。

明日も泊まっていい?って9連泊目の夜に言われて心が折れた。疲れがどっとでた。スイッチを切らないと、ヒステリーを起こしそうだった。
今日は最後だから楽しくすごそうと思ったのに、「一人になりたい」と伝えざるを得なかった。
彼が求める笑顔も、会話も、スキンシップも、できなくなった。

だったら明日は泊まらないという。
今日が最後ってことになる。
それならやさしくしたかった。楽しい夜で終わらせたかった。

節度のない馴れ合いはうんざりだ。

これがワンルームでなかったら、家族だったら、子どもだったら、相手が違ったら、うんざりしないんだろうか。

おやすみ。

生活したらイヤんなるけど、それでも好き。


引っ越す直前、

「そらせまいけど とうきょうがすき
せいかつしたらいやんなるけど それでもすき」

書いているけど、わたし、生活してもいやんならなかった。

中目に住んでた頃は、東京から新幹線で出ていくとき、羽が生えたみたいに心が軽くなって、鉛のように重たい現実から抜けられる解放感がすごく気持ちよかった。行き先は、京都だったり東北だったり実家だったりした。とにかく、品川駅からすーっと新幹線が動き出して、どんどんスピードが上がっていくあの解放感。忘れていない。

でも、引っ越す前に心配していた「東京で暮らすことのストレス」は、3年目にしてかなりいい感じ。お金ないけど、幸せ。こんなにないのに、毎月ものすごい赤字なのに、中目のころに感じていたへんな焦りはまったくない。

あのころ、焦ってた。なにに焦ってるのか分からなかった。だからつらかった。でも焦っているのは分かった。無意味な焦りだというのも分かっていた。だからつらかった。朝がいやだった。一日が長かった。うんざりした。暮らすのが重かった。

今焦っていないのは、ちゃんと地に足着いて前に進んでるという実感を持てているんだろう。将来設計なんてなくなっちゃったけど。貯金も収入もすごく減っちゃったけど。

でも、あの頃だって生きている実感はいやというほどあったよ。なんであんなに苦しかったんだろう。寂しかったんだろう。辛かったんだろう。重かったんだろう。

生きているという実感の種類が違ったのかなあ。あの頃はヒリヒリするほどだった。受け止めきれなかった。こなせてなかった。

今は自分のペースで進み、後じさり、様子を見、はしゃぎ、傷つき、泣き、笑っている。