回想と、すこし悶々
2010年1月23日 土曜日 21:53
以下、mixiで2007年11月17日に書いた日記『シンポジウムとおはなし会と映像の世紀』を全文コピペ。
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こないだ愛知東邦大学主催の「子どもが育つ地域づくり」というシンポジウムへ行った。
そのことを長々とどっかに書こうと思ったのだけど、あした早いからもう寝る。
今自分の生活の中でいちばんたのしいおはなし会ボランティアがあるのです。http://www.aichi-pref-library.jp/jidou/jgyouji.html
明日は紙芝居を2つやります。
朝11時半からのちっちゃいこ用が「ポケットポケット」とかいうやつでこれは5歳以下じゃないとおもしろくないとおもうけど、2時からおっきいこ用にやる「たべられたやまんば」(=3枚のおふだ)は大人もおもしろいと思います。
だから見に来てね!とはぜんぜん言いません。
知ってる人がいたらきっとどもっちゃうからね。
わたしのこと知らない人は見に来てね。
ちなみに、自分の生活の中で2ばんめにたのしいのは保育士試験の講座。授業はおもしろいけど練習問題はまちがいばっかり。
こないだわたしがゆびにはめたクマの人形になついてきた子どものパパが、どっかでみたことあるなーと思ったらあとで思い出したんだけど仕事関係の人でした。
あたしなにボランティアなんかやってんだろ、的な気分になった。
シンポジウムではこどもケータイでもエロ画像がこんなに見れる、ということを熱く問題視するえらい人が、パワーポイントで延々エロサイトを見せてきて、「おまえぜってー好きだろ」と思った。
PTA風なおばさん(たぶん教育関係)に「なぜ子どもがあんなに脱ぐのかその気持ちがわからないのですが」と質問されて、「ぼくもわからないがサイトの作りが巧妙なのだ」というような感じで答えていたのがぶへ・!と思った。
子どもについて考えてるえらい人なのに、「なんで脱ぐんだろ」って疑問に思ったことないのかな。
わたしはそこで挙手し、性を売る人がなぜ性を売るのか熱く論じた。
うそ。きっとポカンとされるだろうし明らかに浮いちゃうし緊張して声がうわずるのも恥ずかしいしお腹も空いていたからやめた。それによしんば、よしんばうまく話せたとしても、議論のための議論はきらいだ。
愛知県児童総合センターセンター長の話はたいへんおもしろかった。
このセンターはこどもにあそびを提供する施設なのだが、ぜったい彼らのほうがたのしそうだと思った。
センター長はえらい人たちの中ではちょっと浮いてる感じがしてそれもよかった。
NHKの映像の世紀を図書館で借りて見ているけどおもしろい。
ほしいけど高い。http://www.amazon.co.jp/dp/B000BEYCB8/
サンタさーん、ほしーよーう。
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今のわたしなら、「ぼくもわからないがサイトの作りが巧妙なのだ」という言葉に疑問を持たないだろう。問題の本質に自分の手で触れようとする前にメディアのせいにしちゃうのは悲しいね。余裕がない、大人自身に。それで子どもを云々言っちゃいかん。悪循環だ。
「ぶへ・!と思った」理由、もっと知りたい。「性を売る人がなぜ性を売るのか」、日記中でいいから論じといてほしかった。
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2009年12月26日 土曜日 00:13
『ラストサムライ』を見ててブログを書きたくなって思ったけど、ってかいつも思うけど、映画ってネタにしやすいんだよな。書きたくなりやすい。適当な雑誌とかフリーペーパーには映画レビューとか情報とかだいたい載ってるし。
わたしは映画は好きだけど、ブログのエントリー数ほどは重要なことじゃないし、おもしろいもんでもない。
ただ、映画のすごいのは、共有してる感じがあったり、大衆娯楽でだれでも内容が分かりやすかったりメッセージが受け取りやすかったり、なにしろ共有しやすい。タレントの噂ネタとかはなんかいかにも下世話だけど、映画の話はなんかカルチャーっぽいし。
『ラストサムライ』は、非常にうるさくて下品でおおざっぱで、マジ鼻持ちならねー映画だけど、それでも感動する。ラストサムライみたいな生き方かっこいい、自分もああいう生き方してみたい、みたいな、100人いたら100人が「そういうことが言いたいんだろ」って分かっちゃうメッセージを素直に分かりやすく見せるし、感化されやすい。されやすい、って日本語が難しいな。されることができやすい。‥‥ますます分かりづらいな。
こういうショー魂みたいのを感じると興奮する。敬服しちゃう。感動しちゃう。
来ませんでした!来ませんでした!来ませんでした!
2009年12月25日 金曜日 12:35
心が汚くなっちゃったのは自覚してるけど、やっぱりわたしのとこになんか、サンタは来ませんでした。
病院
2009年12月6日 日曜日 13:15
病院のなにが好きかというと、働いてる人の「働いてる・!」っていう感じ。あるべき場所とやるべき仕事がはっきり合って、しっかり人と自分と向き合って、どんどん前に進んでるあの感じ。
天気のいい日曜にひとりぼっちを感じてたら思い出した。対局。
本『はてしない物語』
2009年10月23日 金曜日 02:07
図書館で借りて読んでる。おもしろくなってきたら表紙にべったりビニールが貼ってある本のまま読み終えるのがもったいなくなってきて、新品をワンクリック購入してしまった。アマゾンでも高い本は中古で買うことが多いので(図書館や中古の、人が読んだ気配を含んだ本で物語を読むのは好き)、ハードカバーの新品購入は久しぶり。
虚無がファンタージェンを浸食している。まるでわたしの精神世界現状みたいだ。アトレイユが絶望の中、個ではなくて大きな世界のうねりの一部として、歩みを進めている。まるでわたしの欠落部分の揶揄みたいだ。
エンデは連作短編集『鏡のなかの鏡』の中のいくつかと、『モモ』を読んだけど、そんなにハマらなかったんだよね。だから『はてしない物語』も映画止まりだったんだよね。映画の前に本読んでたらよかったなーってこんなに思ったことはない。
ファンタジーの中で『ホビットの冒険』がいちばん好きだったけど、変わるかもしれない。『はてしない物語』は今読むのにタイミングがぴったりだ。足下がおぼつかない日々の中で、なんとかわたしと地面のフックのような役割をしてくれてるように思う。
しかし、買ってから新装版が出て悔しかった本の筆頭が『罪と罰』文庫、『モモ』、『ホビットの冒険』。
『ホビットの冒険』オリジナル版は、たぶん原著に忠実にという意味で本文が横組みなんだよね。だったらいっそ原文の英語でのオリジナルデザインのものが欲しい。けどそれはない。ので購入に至らず。いろんな装丁で出てるけど、トールキンの絵はどの画家のよりも好き。
『モモ』は作品自体にそれほど思い入れがないので購入に至らず。
『罪と罰』は最初に読んだのがボロボロになってしまったし再購入しようかなとも思うんだけど、最初に読んだ本には線が引いてあったり付箋がくっついてたりして、それなりに愛着がある。それはそれとして、再読用に新装版も買っちゃおうかな。文庫は圧倒的に新潮が好きだ。
文庫はカバーを捨てて保存する人もいる。たしかにこざっぱりして本棚に並べたときすっきりするしいいんだけど、装丁がないのはやっぱ寂しい。そんなにカバーが大事なら本屋で紙カバーつけてもらえば、とも思うんだけど、本を開くときに装丁が目に入って、それから読むのが読書の楽しみの大きな要素でもある。透明ビニールカバーなども試したけど、しっくりこない。本は紙か布が良い。
ただ、同じ絵柄の表紙がついてる絵本なんかは、カバーいらないかなと思う。カバーをつけておくのは日焼け対策程度。カバーが焼けたりボロくなったら外してしまう。
装丁ばなしついでに。最近帯込みでデザインが成立している装丁があるけど、あれは悲しい。帯は読むときじゃまだし広告なので外したい。でも外すとデザインが崩れる。苦肉の策として、帯は外して捨てないで栞代わりにするんだけど、栞にすると結局なくしてしまうんだよね。
書店陳列時に目立つことを重視した装丁が最近多くて、感心するんだけど、やっぱり本の持つ世界への玄関としてあってくれるのが好き。ジャケ買いすると鈴木誠一デザインのものが多い、というのは、そのへんに理由があるように思う。
これだけ装丁について考えさせる『果てしない物語』はすごいな。しかも中身もすごいぜー。セバスチアンの本へのこだわりについて、ほんとうにおもしろい物語ってこんな物語だ、と描写しているくだりがあるのだけど、ほんと、正々堂々とあんなことを書いてしまえるエンデはすごい。あそこで「あートールキンより好きかも」と思った。
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あった‥‥。
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追記 -10/30深夜-
『はてしない物語』は、児童文学、ファンタジー、冒険、というかたちで書かれた哲学書。子どもにすんなり伝わる平易な冒険物語を追いながら、知らないうちにすごく大きな心理がすーっと体に浸透していく。ごく自然に、ゆるやかに、やわらかく、しなやかに。
そういう表現の仕方が、わたしにはちょうどいい。読み手としても書き手としても。
 
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