今日、パソコンで青空文庫の『蒲団』を一気読みした。
このくらいの長さの小説を、Webで読むのは初めて。
琴線に触れる小説だった、とは言わないけれど、それなりに余韻の残るいい小説だった。
余韻に浸っているとき、余韻の対象物が物質として存在しない。つまり紙とインクではなくて空気みたいに存在しているデータだ、ということを痛感した。
わたしは本が好きで、思い入れのある本は手元に置いておきたい。
この気持ちは、幼少時からの習慣のせいなのかもしれないけれど、とにかく想いにふける対象物が物質としてそこにない、ということに一抹の寂しさを感じた。
こういう現象が、今後世界でどういうふうに人々の心に、文化のありかたに影響を与えるのか。
絵画なんかだと、肉筆vs印刷物という価値の重さがハッキリしていてまだ分かりやすいのだけど。
アンディ・ウォホールなんかがやった商業的な絵画というか美術というか、作品作りは、そのあたりに革命をおこしたわけだ。でも彼の商業的な作品は、やっぱり肉筆の美術とはまったくちがうカテゴリーに属すると思う。
そして、シルクスクリーンの大量生産作品だとしても、やっぱり紙とインクで出力されてないとダメで、本にまとまってるのなんかじゃ味わいきれないのは明白。
論文や、データ的な意味合いの強いテキストは割り切りやすい。
でも文学は、難しい。どう展開していくのか分からない。
こういうことを最近よく考える。
今までは媒体のあり方になんてそれほど興味なくて、とにかく自分がアウトプットしたかっただけなんだけど、そうでないもっと全体的なことを考えるようになったのは、良いか悪いかは別として個人的に大きな変化だと思う。アウトプットよりインプットに脳みそを使う時間が格段に増えたし、興味も強まった。
インプットもアウトプットもわたしにとっては魅力的な作業だ。

